【効果抜群】世界遺産勧告で、静岡・韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)は前日比4倍の客増加。急遽変更した人も。:ありえるぷらねっと
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韮山反射炉の客4倍!ちなみに読み方は、にらやまはんしゃろ


4日に世界文化遺産への登録勧告を受けた「明治日本の産業革命遺産」の23の構成施設のうち、
首都圏から最も近い静岡県伊豆の国市の「韮山反射炉」周辺は5日、県内外の観光客でごったがえし、
前日の約4倍の入場者を記録した。反射炉の歴史などを伝えるボランティアのガイドらは「こんなに多いのは初めて」とうれしい悲鳴を上げた。

 伊豆高原(同県伊東市)に昨夜泊まり、箱根に行く予定を給与変更して家族4人で訪れた
埼玉県川口市の会社員、野村和弘さん(55)は「こんなところで大砲を作っていたとは全く知らなかった。勉強になった。なぜ鋳物のまちの川口で作らなかったのか疑問もわいた」と話した。

 伊豆の国市によると、4日の入場者数は1121人だったが、5日は4626人と約4倍となった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150505-00000533-san-l22



行動はやすぎww

▼韮山反射炉 - 明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域
1840(天保11)年のアヘン戦争を契機に、日本では列強諸国に対抗するための軍事力の強化が焦眉の課題となります。蘭学に通じた幕府の韮山代官江川英龍は、西洋砲術の導入、鉄製洋式砲の生産、台場の設置、洋式船による海軍の創設、洋式の訓練を施した農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に建言しました。このうち、鉄製砲を鋳造するために必要な溶解炉が反射炉です。韮山反射炉は、1853(嘉永6)年のペリー来航を受けて、幕府直営の反射炉として築造が決定されました。

 1853(嘉永6)年、伊豆下田にて築造開始。翌1854(安政1)年、下田に入港したペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入したため、築造場所が伊豆韮山(現在地)に変更されました。1855(安政2)年、江川英龍は世を去ってしまいましたが、跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め、1857(安政4)年に完成しました。

 江川英龍は、幕府の韮山代官職を務めた旗本で、管轄地の民政に優れた手腕を発揮しました。加えて、渡辺崋山ら蘭学者との親交も深く、日本の海防政策に西洋の進んだ技術を取り入れることを幕府に度々建言しました。自ら西洋砲術を各藩の藩士らに伝授するなど、日本における軍事の近代化の基礎を築いた人物の一人です。
http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_shizuoka_01.html
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